昭和五十二年十二月三十一日 朝の御理解


御理解 第十三節 「神は向う倍力の徳を授ける。」


 一生懸命にお参りをする。まあ、それも神様へ向こうてきたことになります。けれども只一生懸命にお参りを続けたということでは、あの、徳を受けるということにはならんと思うですね。話を聞いて助かる、だからお参りをする、おかげを受けるということはできましょう。神様へ向こうてくる、一歩でも無駄足は踏ません、無駄にはさせんとおっしゃるぐらいですから。けれども、そのお徳を受けるという向かい方は、こりゃあ別だと思います。その証拠は、なら沢山の人がお日参りをするとか、一生懸命熱心に参るとかという〔よう〕な人達が、おかげを受けとるけれども、お徳を受けるとるなあとは思われない事実があるでしょう。ね、だから、ただお参りをしておるということだけでは、あの、倍力の徳というようなことにはなってこない、ね。ただお参りをするということだけが、神に向かうというのではない。ここではお徳の受けられるような向かい方と、と、まあいただかなきゃならんでしょうね。はたして自分が、お徳が、倍力の徳が受けられるような、いわゆる神に向かう、向かい方というものがでけておるだろうかと。ね、これは、本気で信心の稽古をしよう、本気で信心の稽古をさせていただく、いうならば姿勢を作ろうというところから始まらなければだめだと思う。ね、だから沢山の人がお道の信心をいたしておりますけれども、ほんとに信心の姿勢を作って、いうならばお徳を受けられる姿勢を作って信心をしておるか、神様に打ち向こうておるかということなんです。ね、ただがむしゃらにお参りをしておる、がむしゃらにお日参りを続けておる、ね、そこには、なるほどおかげは受けても、それはお徳を受ける姿勢ではないと思います。
 ね、まず、例えば、舞踊ですね、踊りなら踊りを習うでも、ね、まずその踊りを習う、いうならば姿勢を先に教えます、ね。私は、あの吉備舞の稽古をするときに、先生が一番初めに、あの教えられる、ね、いわば、こう構え方です。踊りの構え、それが姿勢なんです。ね、その構えがでけて、そしてなおかつ、稽古がでけてひとつのなら舞人なら舞人としての、御神前で舞わるほど、ような舞ができ上がるのであって、お徳を受けるという姿勢、構えがね、まず大事だと思うんです。ね、だから、その構えがお互いでき、ね、構えを作ってですね、あの信心の稽古をしなければ馬鹿らしいです。ね、構え、お徳を受ける構えを作って信心の稽古をする、いうなら神様へ打ち向かうならな、こんならもう必ず倍力の徳を受けられると。ね、もうそれこそ耳に蛸のできるぐらいお道のお話は聞いとる。ね、お参りもそりゃまそうりゃしとる。人達がね、例えばお徳を受けてない人達が多いです。と、[どういう]ところからそういうふうになってくるのか。そりゃお話のなかに沢山、〈たしか〉確かにお徳を受ける、いうなら構えはこうだぞと、これが基礎にならなければならないぞと、聞いとろうけれども、聞くもの自体があの構えを作らない。ね、まずお徳を受ける構えが大事、ね。そしてそこから稽古です、いわゆる会得です、体得です。ね、これは、たとえば楽〔器〕、三味線の稽古なんかが一番いいですね。まあ、一番初めは、「竹に雀」とこう言われております。なかなか竹に雀が止まりません。ね、だんだん稽古しておるうちに、その、まあどうやらこうやら竹に雀が止まるようになる。ね、それからまあ見やすいものからだんだん習うてゆく。まあ、【  】ちょっとした唄の十か十五もあげるころになると、三味線の本当の音色が聞こえてくるようになる。「はあこれは調子が違うとる」ということが分かってくる。初めから調子は分からん。「あら、これは調子が狂うとる」その狂うとることから分かってくるです。ね、弾いてみるけれども、習おうた通り弾いてみるけれども、なかなか竹にいわば雀が止まらん。「ああ、これは調子が狂うとるな」ということが分かるです。それで、調子を合わせようと努める。合わせようと努めておるうちに、もう一々、まあ弾きながら、はっ、調子が下がっとるか、上がったとかすぐ分かる。ね、もうここには会得であり、いうなら体得なんです。ね、それにはまず、ならさっきは吉備舞の例を申しましたが、まず、ね、いうなら舞を舞わせていただく、その姿勢、ね、構えをまず習う。そして、なら三味線を体得してゆく、なら例を申します。したがね、ね、はじめから調子が合うてなんてんちゅもんはありゃ、おりゃしません。ね、やはり竹に雀からだんだんいくつかあげていきよるうちに、ね、調子が「あいたっ、狂うてるな」ということが分かるようになる。初めの間はです、もう、だからなんちゅですかね、あの調子の分からない人は、もう、習おう通り一生懸命弾きよるけれども、一つも良い音色が出らん、出らんなりに、やはり音痴的な人は、弾いておる人もやっぱりいますよね。けれども、大体において弾いておるうちに「あっ、これは調子が狂うておる」ということが分かるようになり、そしてその、調子を合わせようとする、まあ、精進をいたしますと、ピシッと合ったところには、良い音色が出てくるから、「はあ、これで合うた」ということんなる。それを稽古していっておると、もうすぐに自分で、なら、いうなら二上がりなら二上がり、三下がりなら三下がりと、調子をすぐに合わせることができるようになる。ね、そこからいうならば稽古の楽しさ、ね、喜びが、いうなら稽古の喜びがいただけるようになる。
 同じ道理です、信心も。ですから、その構えをまず作る、ね。そして、いうならば「はあ、信心ちゃ有り難いなあ。お願いがすぐおかげを受ける。はあ、信心ちゃ有り難いなあ」と、おかげを受けることだけが有り難いという信心では、何十年経ったって同じです。そして、おかげというものは、神様が、それがそういうに願おうたとおりに下さるもんじゃあない。いただいたり、いただかなかったり。それでもやっぱり、神様にすがらずにおられないとか、まあ、間には、ね、やっぱり「やめはきらん」といったような程度の信心の人も沢山あります、ね。それではつまらん。どうでも一つ、ね、「神は向う倍力の徳を授ける」と仰せられる。ところが、たくさんの人が、一生懸命、毎日日参をする、朝参りをしとるけれども、お徳を受けておられるというふうに思われん。自分の周囲を眺めてみるがいい、ね。お徳を受けるということは、まず第一に、もう喜びがあふれてくる。ね、いつも心の中が安らいでおる。安心の心が広がっていく、ね。それこそ一切を、有り難い有り難いで受けていけれるということがお徳なんです。いつも心が安らいでおる、安心のおかげをいただく、そのことがお徳なんです。何十年経っても、安心の心も、ね、ただ突嗟的な喜びはあっても、信心の喜びというものは、おかげを受けたから嬉しいや、というのとは違う。ね、だからたくさん信心はしとるけれども、そういう喜びに浸っておるとか、安心のおかげを受けておるとか、ほんとに「神を杖につけば楽じゃ」というようなおかげをいただいておる、ね、信心はしておる、神を杖についたつもりであって、ね、楽じゃというところになっていないとするならば、お徳を受けておるとは言えないのです。そこでです。こりゃ、こういう向かい方では、いうなら馬鹿らしか、ね。せっかく信心の稽古をさせていただくなら、ね、なら、お徳のいただけれる構えを、一つ作らにゃならん、教えてもらわなきゃならん。そして、「あっ、調子が狂うておるな」ぐらいなことは、もう分からしてもらわにゃ、〈こりゃまた〉大体分かるようですね。合楽の方達の場合は、〈そこのところ〉の稽古はでけとる。「この頃、自分の調子が〈一寸〉違おうとる、その証拠に、良い音色が出らん」ね。そこでです、いうなら違うておることが分かったならば、それを合わせようと、という精進がなされなきゃならんのです。ね、だんだん稽古していくうちにですね、その調子が、すぐ合うようになる。いうならば神様との、いうならば交流を日々(にちにち)感ずることができる。ね、そこから良い音色が出ないはずはない、ね。私、ほんとにですね、信心のそういう、この音色というかね、信味(しんみ)とこう申しますね。信心の味わいと。それを皆さんがね、おかげの味わいだけを、その堪能しておるけれどもね、信心の味わいというものを、感じきらんでおる。信心の味わいというものの楽しみを知らんでおる、ね。どうでも信心の味わいの分からせてもらえれる、いうならばおかげ、そういう信心、そういうね、信心がでける。まず、構えを作る、ね。それから、いうならば、ここで「日と光の音律」というようなふうに言いますね。「晃」という字、ね。私どもが信心をさせていただいて、少し信心の喜びが分かる。もうそれは、そのまま光である。その光と、日は天地である。ね、お天道様である。その日、日と光の、いうならば音律、調子、調和です、ね。そういう体得をさしてもらう。そしてその信心をいよいよ垢抜けしたものに。間違いのない、いわゆる確固たるものに仕上げてゆく。こういうところにですね、非常に邪魔になるものは、邪魔になるものは、やはり我情我欲ですね。いうならばおかげですね。ただ、おかげいただいた、おかげいただいたという、そのおかげが、かえって邪魔をすることがあります。いや、邪魔になることがあります、ね。まあ、お徳を受けてゆくためには、様々な、いうならば、ね、「はぁ、こりゃ調子が狂うとるぞ」と気がついたらです、ね、改めるところは改め、研くとこは研かしていただく。または辛抱のためのとこは辛抱を続けてゆく、精進させてもらう。とういうふうにして調子というものは、整えてゆくもんです。そういう向かい方をもって、私は、ね、「神は向こう倍力の徳を授ける」と仰る。ただお参りしよれば、毎日日参しよれば、お徳が受けらるということではないという事実は、沢山のお道の信奉者を見れば分かるでしょう。ね、だから、いうならば「神へ向こう」しかも「倍力の徳が受けられる」向かい方とは、ね、いうならば、ほんとに信心をいただこうとする、その姿勢を、まず作らなきゃあならない。構えがでけていない。あの、おかげだけ終始しますとね、あの構えもないですが、もうすぐ崩れるです。ね、教えにはいただいておるけれども、ああ、ね、黙って治めにゃならんというとこを治めきらん、姿勢がでけとらんと。御礼ば申し上げにゃならんことに、不平不足を言うです。すぐイライラしたり、腹が立ったりするです、構えがでけとらんから、ね。
 ほんとに構えが、例えば、私がその、ま、剣道とか柔道とかやったことがないですから分かりませんけども、やはり、なら剣道なら剣道の構えという、構えがなっとらん、ね。ところが構えがでけておりますと、よし叩かれてもですね、さほどに痛さを感じない。ね、いやむしろそれに、叩かれることによってです、いうならば次の手段というものが湧いてくるのじゃないかと思います。やはり、構え。構えがでけておらんのに、ボーンと叩かれてご覧なさい、も、面食らってしもてから目が真っ黒なってしまう。ね、構えっていうのは、そんなに、いうなら大事なもんです。
 昨日、御心眼に、ここへ座っとたら、或ること、或る方のことをお願いさしてもらいよったら、『こう、座っておる時にゃ、ほお、大きな相撲取りさんが座っとるなと、こうして思いよった。そしたら、こう立ち上がったら、足がひょろひょろしとるように小うまいもん、ね。それから、そのお尻も小うまい。ただ、腹がこう太してから、こう、ちょっと座っとる時には分からなかった。腹に隠れてしもうとる。立ち上がったら、お尻が小うまくって、足がひょろひょろしとる。』というような、その御心眼をいただいたんです。ははあ、この人が、いうならば何と申しましょうかね、足元がよろよろじゃ。お尻が軽いじゃ。ね、信心はつい一杯いただいて腹はできたごたあるし、体格もでけたごたあるばってん、下のほうのほうが、お尻が軽うして足がひょろひょろじゃ。これじゃ、それこそあれは何て言うんですか、ハワイから来とる相撲取り、あれがその大きいけれども、その足が、ね、弱いからコロッとやられるというようなことをよく言よりますでしょ。それが、あんくらいならまだよかですけどもね、もほんな足はひょろひょろじゃ。お尻は、小うもしてから、軽かごたある〈ほうじゃ〉、ね。だから、ほんとに力を受けるということはね、やはり五体全部が足らわにゃあいけん。ね、いうならば、ね、心技一体というかね、人間とね、身代と、たっしゃというように、足ろうたおかげ。ね、それがやはり徳になるのです。
 私は今日は、あのほんとの御神徳を受けるという姿勢とか構え、または、それをいただいてゆくためにはというようなお話をしましたが、これはあの霊徳というのはまた別のようですね。ね、霊徳を受けるというようなことは、それこそ、あの一生懸命、その表行でもさしてもらやあね、霊徳に触れることがでけるんですから。私は、ここでは何と言うても、教祖様は、御神徳のことを徳と、こう表現しておられると思うんです、ね。御神徳を、ね、受けなければ人間の幸せはないし、あの世に持っていけるものも、いくら信心をしとるからと言うてもないし、もちろん残しておくこともでけない。御神徳を受けるためには、御神徳を、なら受ける信心姿勢を、構えを、まず作らなきゃあならん。ね、そして、いうならば天地との交流、天地との、いうならば調和というものがです、教えによっていつも保たれてゆく。狂うとったらすぐそれが直してゆける。そういう信心をいただき、そういう信心によって、神様へ向かう時に、神様は倍力の徳を授けて下さるというふうに思うです。でないと、なら今日私が申しましたようなふうに、いただかんと教祖様の教えは嘘だということになります。私も十年も例えば、朝参りを続けておるばってん、お徳らしいお徳もいただかん、と言う人やらが沢山あるでしょう。そするとその人達は、「打ち向こうたばってんお徳を受けちゃ、受けられやった」と言うて、教祖様が嘘仰ったように〈言われる〉。決して神様は、嘘は仰ってない。それには、ただおかげをいただくためには、そういうにゃ参って来とるばってんが、お徳を受けるためには、いわゆる構えもでけとらんと、悟らせていただくところは悟らせてもろうて、ね、神様へ打ち向かう、お徳の受けられる打ち向かい方をさしてもらわんならんと思うですね。どうぞ。